未分類

おすすめ小説

スポンサーリンク

前回のブログでも少し触れましたが、今回はクリスチャン作家の三浦綾子さんが書いた
≪ちいろば先生物語≫という小説の感想を書きたいとおもいます٩( 'ω' )و

ちいろば先生とは実際に存在された榎本保郎さんという牧師で、その方の生涯が書かれています

『ちいろば』というのは聖書に出てくるイエス様が乗った子ろば(ちいさいろば)を意味している

ルカによる福音書19章28-31節

『イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」』

エルサレムに入城する直前、イエス様はラザロという人を生き返らせる奇跡を行っていた。
それ以前にもイエス様は様々な奇跡を行い、噂を聞いていたエルサレムの人々は「この方こそイスラエル人を救ってくださる王様だ!」と大喜びで歓迎した
しかし王様のような歓迎をうけているにもかかわらず、イエス様は立派な馬でもなく、親ろばでもない、乗り心地が悪い小さな子ろばを選ばれて乗ってこられた

この箇所を読んで榎本牧師は友人に対してこう語っている「一度も人を乗せたことがないろばの赤ん坊、乗り物としては下の下や。そう思った時、ぼくも人間の中の下の下やと思ったんや。人を乗せたら何歩で参るかわからへん、そんな力なしや思ったんや。けどな、イエス様はな、小さなろばに乗って、エルサレムに入城なさった。ぼくもな、主の用なりと言われたら、愚図やけど、イエス様を乗せてどこへでも行こ、そう思って眠れへんかったんや」と。

このことから榎本牧師は自らを子ろばに例えてちいろばと表現するようになった

もちろん本書を読むと『こんなに立派な人が自分のことを小さなろばに例えるなんて随分謙虚な方だなぁ』と思わされる
私が特に印象に残ったエピソードを2つ紹介します

1つは「偉い人はどんな人か」という題で榎本牧師が修養会で説教された時の話

教会が運営している世光保育園で働くアイバさんは、給食を作ったり、掃除をして働かれている
アイバさんが作るうどんは京都一おいしい、なぜなら本職の板前さんのところに行ってダシの取り方や料理の仕方をみっちり習ってきてくれたからである

さらには保育園のトイレを見て榎本牧師は感動される
保育園のトイレというのはいくら教えてもキレイに用を足せない小さな子ばかりなので汚れるのが当たり前
にもかかわらず世光保育園のトイレは誰も使ったことがないみたいにいつもピカピカである
アイバさんは『掃除するそばからどうせ汚すんだから適当で良い』とは決して考えない
『1日に1回掃除しても、10回掃除しても給料は同じ』そんなことも考えていない
自分のためではなく、人のために生きておられる、そんな人が榎本牧師は偉い方だと思うと説教された

この説教を聞いた中学生たちが実際にトイレを見に来て感動し、日曜日に教会に通うようになり、高校生になってからはヨルダン会という100名を越す青年会をつくっている

もう1つのエピソードは、榎本牧師が始められたアシュラム運動という全国的な伝道運動と、その時に牧されていた今治教会を続けていくべきか悩んでいたときのお話

榎本牧師はそのころ持病の肝硬変が悪化し、何か月、時には半年も入院することがあり、全国を飛び回るアシュラム運動よりも、教会にとどまる方が誰の目にも良いように思えた
しかし牧師はアシュラム運動がどう考えても神様の御心だと感じ、悩んだ結果アシュラム運動に専心する道を選んだ
そのことを奥様に告げると、当然奥様は反対した
病気のことはもちろん、それ以外にも生活が少しでもうるおってくると「保育園からの給料は全て献金する」と言い出したり、開拓して14年牧した世光教会を『これは私がつくりあげたのだ』と〈教会を私物化する過ち〉に陥らないように今治教会へと移ったりする榎本牧師に対して、そろそろ楽な道を選んでほしいという思いがあったのだと思う

それに対して榎本牧師がこたえる

「すまんなぁ。ぼくはな、ぼくらばかり恵まれていて、ええんかなあ思うてしまうんや。こないだもなあ、こんな短歌見て、ぎくりとしたわ。
 神の御子 けだもの小屋に生れしさま 炉辺にぬくぬくといて 吾は読む
という歌な。ほんまやなあ思った。神の御子がけだもの小屋(馬小屋)に生まれたもうた。神の御子がぼくたちの罪を負うて十字架にかけられた。その聖書をな、ぼくらとは何の関わりもないかのように、ぬくぬくとのんきに読んでるだけなんや。ぼくたちは、何のええ行いがなくとも救われる。けど、救われたあとは、それでええのやろか。何もせえへんで救われたからというて、救われたあとも何もせえへんでええのやろか。救われた感謝の表れが、何か出てきて当然やないのか」と。

結果的にこの牧師はアシュラム運動のためアメリカに向かう飛行機の中で吐血し、苦しみ悶えた末に異国の地で天に召された

それ見たことか、と言う人もいるかもしれない
ですが私は罪のないイエス様が私たちのために拷問にあい、最後には十字架上で死なれた姿や、同じようにイエス様に従ったことで悲痛な最後を遂げられた弟子たちの姿がこの榎本牧師と重なり、平穏な死が必ずしも幸せなわけではないような気がした

イエス様は

『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。』マタイによる福音書16章24-25

と言われている。今も榎本牧師が始められたアシュラム運動が活動し、さらに息子さんや甥御さん、榎本牧師を知る方々が多く牧師として働かれている様子を知ると、「あんな死に方をするくらいなら神様に従うことはやめておこう」と思う反対の気持ちが生まれているんだろうと推測することができる

この小説だけを読んだ私でさえ、この死に方が不幸であるとは思えない
尊敬され、愛され、たくさんの方を洗礼に導いた榎本牧師に対して、憧れの気持ちさえ抱く

ぜひ皆さんにも榎本牧師の濃い濃い人生を知っていただきたいので、お手に取ってみてくださいね~(∩´∀`)∩
それでは長くなりましたのでこのへんで( ◠‿◠ )

スポンサーリンク

-未分類

© 2024 クリスチャンそんちゃん Powered by AFFINGER5